Perfil
- Hatena ID
- free_jamal
- Description
- Self introduction
-
◇このブログの紹介について
ここは、イラン労働者共産党の日本代表、ジャマル.サーベリ(難民)のブログです。イラン労働者共産党(WPI)は日本共産党のような旧ソ連派とか、中国系、新左翼などの共産党とは無関係です。
<<WPIの元リーダーマンスール.へクマト(MANSUR HEKMAT):マルクスの社会主義の基本は人間の人間性を充実させる事です。>>
MANSUR HEKMATのサイト(ペルシア、英、ドイツ、アラビア、クルド、トルコ語、...)
http://hekmat.public-archive.net/
WPIの歴史について後に詳しく書こうと思いますが。基本的にWPIは1992年11月30日に結成した組織です。しかし、この組織に所属しているメンバー、特に中心の人々の闘いの経歴はもっと長いのです。1979年のイラン労働者革命の時期に海外(イギリス)で学生だった数名の社会主義者は帰国しました。彼らはそれまでどこかの組織に所属する事もなく、独自に社会主義の研究をしていました。この数名は帰国後には小さな組織(闘う共産主義者連盟)を結成させて、「サハンド」、と言う機関紙を発行します。当時の状況をポピュリズム及びイスラム愛国主義の流れとして批判していたサハンドのマンスール.へクマトとハミード.タグワーイの噂は後に社会主義の組織・個人の中に広がって行きます。イスラム政権の誕生後にはじまった凄まじい弾圧を引っ掛けに多くの活動家、個人や組織は国外や、闘いが続けているクルド州に流れて行きました。そこで、「サハンド」の噂を聞いていたクルド州の社会主義の組織(コマレ)は彼らに呼びかけました。そして後に、へクマトの思想をもとして、「革命的共産党」が設立します(1983年)。ここで確認するべき点は、革命的共産党に所属していたのはクルド人だけではなかったのです。更に、当然の事に、クルド州に革命的共産党だけではなく他に様々な組織が存在していました。ようするに、クルド愛国主義を称える組織もいれば、共産主義組織なども存在していました。つまり、クルド州を中心にして様々な組織が集まった理由はイスラム政権の弾圧はクルド州に呼ばなかった事です。ともあれ、この指摘の理由は、メディアやクルド愛国主義組織の宣伝と違って、現在クルド州の闘いを仕切っているのは反動的・ブルジュワ的な愛国主義の傾向でけはなく、多くのクルド住民は社会主義的な考え方を持つ事実を知らせる事です。
へクマトたちは1988年(イラン、イラク終戦、その後、フセイン政権とイラン政権の攻撃を受けて多くの人々はクルド州で死にました))までは「革命的共産党」の中で活動を続きましたが、1989年の終わり頃には、クルド愛国主義の流行を理由に脱却を決めました(分裂ではありません)。脱却の原因はそれ一つだけではありません。社会主義運動を国際的な範囲で考えて分析していたへクマトは、今後の世界情勢と、訪れて来る変化に備えて「革命的共産党」としての社会主義運動は成り立たないと判断していた事もあったからです。
その後へクマトたちが、二年余りの間に様々な理論を積み重ねてWPIを設立させました。であれ、上記経歴の通り、WPIに所属しているメンバーの多くは30年に呼ぶ闘いの経歴を背景にあります。メンバーによっては、王制時代の学生活動家として刑務所に入った事ある者のいます。WPIの歴史はイラン労働者大衆の30年間の歴史そのものであります。
私自身の経歴
1968年のイラン、テヘラン生まれです。社会学に興味があって一時大学を目指していました。が、高校時代の先生に、<大学を卒業しても坊主の手先になるだけですよ>。と言われたため諦めました(学校の授業hsイスラムの教えばかりだからです)。この教師の一言に今も感謝しています。
1990年の終わり頃には来日しました。社会主義の組織と繋がりを持ち、野蛮なイスラム政権と闘い、倒す目標を達成させようと思ったからです。基本的には私は高校の時から自分を社会主義者・無宗教派と考えていました。ともあれ、イランを脱出した以上には、イスラム政権が倒れるまでは帰国しないよ、と決めていました。だが、大変厳しい状況の中で、目指していた組織との繋がりには2年ほどかかってしまいした。WPIとは繋がりが出来て大きな進歩として喜びました。
事実、WPIに入党した後、日本の様々な労働組合や左翼組と織関係をつくったり、イラン情勢とWPIの紹介に取り組みました。隠れ生活と、不安定な状況を続きながら、1998年までの活動は上向上しづづありました。だが、...
難民申請について
<日本は難民を受け入れない>。この一言をいつも周囲の人々から聞いていました。が、難民申請をした後にこの事実を肌で実感して来ました。
実際、一度は1996年に難民申請をしようと思ってアムネスティインターナショナルと相談しました。残念ながら突然な思いもよらない事情の発生のため申請を一時的に中止しざれを得なかったのです。
結果として、96年の事情に重ねて新たな事件発生後に、危機を感じて01年5月に法務省・入管に難民申請を出しました。
申請は03年10月に却下されて、凄まじい横浜入管に強制収容されました(一ヵ月後に茨城、牛久入管センターへ移動)。
04年には裁判を起こしました。同年の4月16日には地裁から、<難民に相当の蓋然性がある>、と言う判決を受けて釈放されました。だが、入管は99%の確率で上告する、と言われて、やはり上告がありました。上告を受ける高裁は必ずしも入管の見方をします。と言う事で間違いなく3ヶ月後にはもう一度など卑劣な入管ファシストセンタへ戻らなければなりませんでした。
こんな非道な法無省の難民受け入れ制度にはそう簡単に負ける訳にはいかない、と考えていました。04年7月13日から青山通りの国連大学前で座り込みをはじめていたクルド人難民二家族と、7月24日頃から合流しました。だが、驚く事に、72日間と続いて座り込みに国連は一切と対応せず、10月21日から難民の排除・裏切りに出て来ました(今も言いますが、これは大スキャンダルです!)。
22日には警備員の<転び公妨>でデッチアゲと私は逮捕されてしまいした。後には公訴があり、その始末としては、とんでもない有罪判決を受けてしまいました。つまり、全治三日に対する重すぎる判決だが、法無省の歴上でも例外だ、と弁護士全員の同意見です。
06年10月13日には地裁の決定判決がでました。何と言う判決だったのか。それは法無省にとって大きな打撃の<全面勝訴>でした。さんざんと法無省・入管に言われたり、いじめられたり、体を壊したりした末こんな判決を受けました。つまり、これまでの私の主張の全ては認められていたのです(後にこの地裁の裁判官がどこかへ飛ばされてしまいました)。だが!?
だが、難民はどうでも良いので、重要なのは法無省・入管(ファシズム)のメンツです。その結果、2週間後には入管側は新たに高裁に上告して来ました。当然、その上告の結果について言うまでもありません。メンツメンツ!?
結論
法無省・入管にとっては難民条約と人間の命はオモチャ及び仕事をこなすための材料に過ぎません。
日本政府にとって難民を受け入れない方針は前提にあります。この政治的な方針を変えない限り、いくら難民条約に批准していると言っても、それは紙上の約束と世論をごまかすものにしか思われません。今年の10月30日に国際人道機関から出された勧告はこの主張の第一証拠です!
当然こんな狂った政治に負ける訳にはいけません。最後の最後まで諦めず闘い続けるつもりです。
私にとって難民条約及び人権・人道は難民だけの問題ではありません。難民条約を守れない政権は自国民の人権・人道を守るはずはありません。その意味で難民運動は労働運動、女性と子供の人権・人道、言論と結社の自由運動及び社会的権利全てと繋がっています。私の闘いの原動力はこれらの運動と密着しています。
最後に
このブログに書かれている文章は私自身によって作成されています。おそらスムーズな日本語にはなっていないと思いますが、予めこの問題を把握し、理解した頂いた上で読んで頂ければ光栄です。
ブログの主な目的はイランの現状、大衆と野蛮なイスラム政権との闘いの実態を伝える事です。もちろん、他に大衆的な闘いも出来る限り掲載するつもりです。
私にとって共産主義・労働者の身分は誇りであります。その意味で大声を出して叫びます。
<万国の労働者よ、団結しようよ!>
<人類を救うため逆さまである資本化世界を引っ繰り返すです!>
現、08年12月11日
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●マンスール.へクマト(MANSUR HEKMAT)のサイト(重要な論文によりますが、ペルシア、英、ロシア、ドイツ、スウエデン、トルコ、アラビア版)
http://hekmat.public-archive.net/
●WPI-ニューチャンネル(英番あり)
●WPIニュースサイトのROWZANE
●イラン人国際難民フェデレーション(IFIR)英、スウエデン版
●ヨーロッパを中心するEX MOSLEM(無宗教派、世俗主義者国際組織)英、ドイツ、スウエデン版など
◇ジャマルさんを支援する会 Free Jamal Campaign
http://www.bekkoame.ne.jp/~pyonpyon/fjc/j.htm
◇ジャマルさん救援会
http://www2.bbweb-arena.com/jamalq/index.html
◇Free Jamal Saberi Now !
http://www.mkimpo.com/diary/2005/free_jamal_2005.html
◇Free Jamal Saberi Now 2004