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keetyanさんのプロフィール

浪速の絵師 Inoue Keisi

プロフィール最終更新日:

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keetyan
一行紹介

浪速の絵師 Inoue Keisi

自己紹介

略歴(画歴)

1933年大阪生まれ。

1948年人形劇団クラルテ創立に参加(中学生

1952年大阪市高等学校卒業

同 年、 京都市美術大学〔現京都芸大工芸科図案専攻入学

1955年同大学中途退学、京都青年運動(専従)に携わる

★その後、寝屋川に帰り、社会教育関係のボランティアの活動をする(市連合青年会・会長、市PT協議会副会長、市青少年指導員会・会長、市文化連盟(副会長)など)

1959年日本写真専門学校卒業

1960年井上光画工房開設(寝屋川市

1969年、フォトデザイン研究所クレアード」開設(守口市

1973年絵画制作に取り組み、翌年画家として活動始める。

1974年大阪府美術家協会創立の参加

1976年、第5回現代洋画精鋭選抜展 銅賞受賞

    (以後、第6回、第11回で銅賞受賞)

★その後、「一枚の繪」で作品頒布活動に参加、現在に至る

★「救援美術展」にも協力作家として作品を提供してきたが、2011年6月をもって救援美術展は活動をていしする。

1991年、第20回現代洋画精鋭選抜展記念展で銅賞受賞

1980年から92年の3期12年間、寝屋川市教育委員会委員を務める

1994年、「ねやがわ文化会議」結成に参加、会長を務める

1980年青少年健全育成に功労があったとして、大阪府知事より表彰

2002年文化芸術活動に功績があったとして、大阪府知事より表彰

これまで寝屋川市教育委員会主催の「井上圭史個展」をはじめ、「一枚の繪」主催や本人主催個展など多数

2004年寝屋川革新懇で「井上圭史画業30周年展」実行委員会を立ち上げて主催してもらい、「井上圭史画業30周年個展」を開催

2009年、「井上圭史水彩画小品展」を寝屋川市市民ギャラリーで開催。喜寿になったのに因み、作品を77点並べる。

★外遊・中国台湾イタリアフランスバリ島カナダ


現在

日本美術家連盟 会員

関西美術家平和会議関西平和美術展)会員

大阪府美術家協会 副代表

大阪美術家革新懇話会 世話人代表

「一枚の繪」(株式会社) 協力作家

日本国民救援会寝屋川支部 支部長

寝屋川市原水爆禁止協議会 会長

大阪革新懇話会 世話人

寝屋川革新懇話会 世話人

美術9条の会呼びかけ人  など


■★少し長めで恐縮ですが、今までやってきたこと、今やっていることが判ってもらえ、人となり、考え方が明らかになる二編の文章をお読みください。


(1)寝屋川市主催都市景観シンポジウム94』でのパネラーとしての発言から (1994年10月4日・寝屋川市中央公民館にて)

 

洋画を描いている絵描き井上圭史です。

 美術雑誌「「一枚の繪」」という月刊美術雑誌出版し、わたしどもの描いた絵を頒布してくれている「一枚の繪」という会社の企画に沿って活動しています。「一枚の繪株式会社」という会社は、複製ではない本当の絵を、日本国中の一般家庭に少なくとも一枚、普及するという運動を社のポリシーとして活動して、それで社名のネーミングにもなっているのです。

 一ヶ月に日本都市や町で「一枚の繪」の絵画展が、おおよそ五十会場ぐらい催されています。そのうちの絵画展で、その町の風景を四,五点書いて、絵画展当日に備えよという企画で、その会場に絵描きが招待されることがあります。その場合、前もってその町とその周辺を取材に出かけます。古い町並みや由緒ある城、陶器の町、旅情を誘う港,美しい山並みや峠道、むかしを偲ぶ武家屋敷、お寺や神社、白砂の海岸、海に沈み行く太陽、そして地元公立の美術館民族資料館などを取材して廻ります。廻りながらわが寝屋川市比較して、いろいろ考えさせれれます。そして、こんな企画の絵画展が寝屋川市内で開催された場合、わたしならどうするだろうかと考えます

 風景5点を作品にしようとしたら、少なくとも20景ぐらいの場所を取材して帰ってからアトリエでいろんな観点から取捨選択し、大きさのバランスなどを考えて、作品制作に取り掛かります

 さて、寝屋川市で20景、絵になる場所をご案内いただけるとしたら、みなさんなら、どこにご案内いただけますか。正直いって、わたしならちょっと困ってしまます。他の市や街に引けを取らないで、全国的にも通用するような「絵になる風景」が探し出せるかどうか、わたしには自信がないからです。

 ところで最近のこと、わたしが寝屋川市内の風景を描かざるを得なくなる経験しました。というのは、昨年(1993年)寝屋川市にあることを契機に文化運動が起こり、その活動の成果で、「ねやがわ文化会議」という草の根の文化運動をすすめる組織が生まれました。わたしも仲間に入れていただいています。いろいろな活動の一つに、機関誌を発行する活動も始めています。「人が見える。街が見える。くらしが見える。文化が見える」という四つの柱を立てて編集方針にし、年四回、季刊発行です。第1号がこの10月7日(1994年)に発行の予定です。

 当初、どんな雑誌にするかという話がでたとき、わたしもお役に立ちたいと想い、「ねやがわ百景」のテーマで毎号表紙に水彩で絵を描くことを提案しましたら、異論はなくすんなりと決まってしまいました。が、ただちに「ごれは大変なこと」だということを思い知らされる羽目になりました。

 小学校に入る前から知っているわが寝屋川の町は、いま、どこもかも大変な変わりようであることは、わたしもよく知っている積もりです。大変な変わりようでありましても、それはそれなりに、「絵になる」「絵になりうる」と高をくくっていました。が、実はそうはいかなかったのであります

 まず、わたしは六年間通った小学校(当時は国民学校といっていた)への学校道の「いま」を、創刊号の表紙絵にしたいと考えました。自宅からかつての尋常高等小学校入学当時)までのおおよそ1.5km.。それは水路の伴走を伴いながら、四季折々に展開する彩りある田園風景の中をまっすぐに走る学校道が、わたしが通った学校道でした。田んぼの中の一本道の先に学校は建っていました。勿論、いまは当時とは随分変わってしまっていることは十分承知の上で、学校道の「いま」を絵にし、コメントで当時との比較や感慨を綴れば、「文化」としての景観問題やら風景論などが、成り立つものと思っていました。それが甘ったのです。

 かつての学校道周辺は、「絵にならない町」と変わっていたのであります。絵にしようとして何度か取材を試みましたが、手に負えず絵にすることをあきらめました。それはあたかも「絵になること」を拒否しているかのようでありました。絵描きのわたしにとって、ましてや「ふるさと」としてわたしの原風景、幼い日々の思い出がいっぱい詰まっているはずの風景が、とんでもないことに「絵にならない風景」に変貌してしまっていたことは、こんな悲しいことはありません。」大変ショックでした。だからといって、いま住んでいらっしゃる住民の皆さんに責任はないことはいうまでもありません。

 そこでわたしは、五十有余年前にしっかり胸の奥に焼きついている、わたしの原風景としての学校道と対峙し、学校へ通った六年間を追体験しながら、胸の中の学校道をなぞてやっとの思いで表紙絵を完成させました。

 現代を生きている絵描きとして、「現代」を描き切れないとしたら、それはその絵描きとしての力量が問われる問題だと、いわれればそれはその通りかもしれません。が、絵心をそそられる、絵にしたい、という絵描きの側から見た場合、「絵になる風景」のある「絵になる町」というのは、街の景観問題を考えるひとつのヒントになりはしないかと考えます。「絵になる風景」のある「絵になる町」が住みよい町であるかどうか、景観問題に沿った町であるかどうかは、議論の分かれるところでしょうが、心和む絵、心惹かれる風景画とはどんな絵でしょうか。あるいはこれまでに見た絵の中であなたの心の中に浮かぶ心和む風景画とはどんな絵でしょうか。

 おそらく、画面は山や川、あるいは空や海などの自然で大部分が占められているのではないでしょうか。それらの自然と十分調和した形で建物や道や人など、つまり人工的な風物が描かれているのではないでしょうか。そう絵を見たときに心和み、安らぎを覚えるというのは、日本人ほとんどがそんな絵にある風景と基本的には同じ自然に恵まれた風景の中で生まれ育ってきたからではないでしょうか。冒頭に述べた「一枚の繪」の絵画展などでのお客さんの話だと、「風景画が好き、中でも水のある風景画に心引かれる」とおっしゃいます。海や湖、池や川のある水が描かれている風景画が、一般に好まれているようです。

 卵からか孵った雛が、生まれて始めて見た動くものを親だと思って、たとえそれが玩具自動車であっても、後について行くように、これを「刷り込み」というそうですが、自然いっぱいのふる里に生まれ育ったわたしたちの脳裏には、自然いっぱいの、しかも水のあるふる里の景観が、鮮やかに刷り込まれたいるのだと思います

 そこで寝屋川市景観問題として考えてみる場合、出来うる限り川や池のあったかつての寝屋川の姿を、それが難しければその要素だけでも、継承する形で考えてもらいたいと思います。そういう意味では、無計画に先の見通しもなく川を塞ぎ池を埋めたてて、田んぼの畦道に沿った形で土盛りをしてという、いままでの開発のあり方は景観問題とはおよそ縁遠い、絶望的な様相を呈するのが落ちだと思います。現にそのような状態になっています

 「寝屋川」の川にしても、市民との関わりのない川と化しています。フェンスを張りめぐらした上に、「よい子はここで遊ばない」などという立て札を立て、川と交わることを拒んでしまっているのです。そんな立て札を立てて廻って、あたかも子供たちによいことをしてやっていると思っているとしたら、どこか間違っているとおもおいます。そんなことをして立て札を立てて廻っていたら、寝屋川市にはやがてよい子はいなくなってしまうのではないでしょうか。心和む風景があちこちに見られる「絵になる町・寝屋川(市)」になる日は果たしてくるのでしょうか。

 いま、わたしは希望絶望との狭間で揺れています。いくら困難が横たわっていようと、ちゃんとした道理に基づく市民合意と、海の真ん中に空港を作る現代の技術を持ってすれば、必ずやふる里寝屋川は復活し得るものと信じたいのです。そして何よりも、市の名前になっている寝屋川の川を中心に、「水」のある美しい町にしてほしい、してゆかなければならないと思っています

 寝屋川市のどこでも、「よい子はここで遊ぼう」といえるような町、市内の絵心のある人々が、常にイーゼルを立てて写生している姿が見られる街角公園、川の見える町、「絵になる風景」がある「絵になる寝屋川市」、近隣の市からも他府県からも伝え聞いて、散策に心和ませ、絵を描きに集まって来る寝屋川市であってほしいと願っています願わくば、わたしが元気で絵を描き続けていられる間に、そうなってほしいものです。

 かつて寝屋川市井上圭史という絵描きがいて、自分が住んでいた町と寝屋川をこよなく愛し、彼の代表作には寝屋川の川を描き込んだ美しい絵があり、そのほか、寝屋川市内の風景を何枚も描いていて、市民からも親しまれていた、などといわれるとしたら、寝屋川に住む絵描きとしてこれに勝るものはありません。絵描き冥利というものでしょう。そんな町、ねやがわしになることを信じて、明日明後日も絵筆をキャンバスに走らせたいです。

 ありがとうございました。

 ●注 当時からは少し時間が経過していますので、現状とは少し違っている面もあります

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(2)日本国民救援会発行『救援新聞2006年1月5日号に掲載された、「救援美術展協力作家 アトリエ訪問」のインタビューによる紹介記事から


★『芸術平和でこそ』 画家井上圭史さん

 わたしが国民学校(いまの小学校)6年生のとき太平洋戦争が終わりました。1945年8月15日の正午、糊の効いた開襟シャツに着替えさせられて、妹弟らとラジオの前に正座させられ、『玉音放送』を聞きましたが、6年生のわたしにはとても理解できるものではありませんでした。

 その夜、灯火管制の黒布を取り外して電灯をつけたとき、畳に落ちた電灯の光が部屋中に広がり、それまでの暗さに比べ、まばゆいばかりの明るさに、思わず「うおっ」と大きな声を上げたのをいまでも覚えております。後になって考えて見ますと、戦争の暗闇から戦後民主的な風潮が広がっていく様を象徴しているかのようでした。

 翌年、旧制最後中学校入学し、学園民主化運動に参加しました。戦前社会運動に携わり治安維持法で捕まり戦後革新運動推進に努力していた父の影響もあってのことだったと思います。そんな活動の中で、東京から人形劇プーク寝屋川公演を見る機会があり、先輩や級友らと観ておおいに影響を受け、やがて人形劇団クラルテを立ち上げることになりました。人形舞台装置を作ったり、背景を描いたりし、先輩の兄さんの書棚にあった美術雑誌のダビンチやミケランジェロデッサンに魅せられたりしているうちに、「描きになりたい」と思うようになりました。

 高校でも部活美術部に属し、大学進学では京都市美術大学(現京都芸術大学)の西洋画科を希望しましたが、両親の同意を得られず、やむなく妥協して図案専攻(いまでいうデザイン科)に入学しました。当時京都の各大学では学生運動が盛んで、京都美大でも刺激を受け、自治会設立運動が起こり、わたしも参加しました。それが次第に高じて、青年運動の専従者となり、大学中退する羽目になりました。

 1955年の末、寝屋川に帰ってから地元農業団体の職員になり、地域青年団にも入れていただき、地道な活動から始めることにしました。

 ややあって、どうしても創造的な表現活動で身を立てたいと思うようになり、写真専門学校に通い卒業して、やがて一人でデザイン商業写真仕事をする事務所を立ち上げました。結婚して子供が小学校へ通うようになると、PTAの役を引き受けることとなり、社会教育関係のボランティアなどに多忙毎日を過ごしていしました。

 40歳になろうとしていたとき事情があっていろいろ考えて末、絵描きになることに挑戦する決意をしました。美大ではデザイン勉強しましたが、油絵は描いたことがなかったので、独学苦労して技術の習得に懸命に努力しました。趣味ではなく、生業としての

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