YuuKita さん

YuuKita さんさんのプロフィール

雄北さんの最高に汚い履歴書

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YuuKita さん
一行紹介

雄北さんの最高に汚い履歴書

自己紹介

 大変遅くなりましたが、筆者の自己紹介します。まづは紋切型の履歴から

 出生は、昭和113月(間もなく75歳)。大阪泉州堺市(黄金の日々)大浜と言う波音が絶えぬ(白砂青松)の海辺した

(物の始まりはみな堺)と江戸時代から進取の気風が強い土地柄だったとか‥。大浜は相撲の発祥地ですし大浜公園や潮湯は早くから大阪の行楽遊園地だったようです。が、今海は汚れ、知らぬ人なき(臨海工業地です

 物心がついたときには泳ぎの達人で、海や気象への憧れと権力への反骨が芽生えたのは、土地柄だろうと思っています。

 時代は太平洋戦争‥(小学校時代にモールス・手旗信号を覚えた)。岡山へ(満3年の疎開)を経て帰阪。

 中学生時代に(ジェーン台風南海地震があったネー)ラジオ技術を修得し、バイトに精を出していました

 高校時代には(まだ放送が始まってないのに)バラックTVを製作し世間を驚かせました(ハハ)

 ラジオ狂いは桁外れ、アマチュア無線にのめり込み(Adress ja3rx はその名残)不勉強の報いで行ける大学が無く(無線通信世界)に足を踏み入れることになりました

 当時は何でも「革新」の時代、学校(を潰した)騒動の首謀者として筆者は退学させられ、浪々の空身で電波受験(←国家試験無線免状は学歴に匹敵した)の羽目になりました

 独学と言うのは本当に大変ですネ、乗船して貯金、休暇下船すると臨時の学校生徒に‥ 苦節何年か「第一級無線通信士」の資格を得て、国際無線(船舶通信)で漸く一人前になったのは24歳のときした

 内航・外航‥日本世界の各地を廻り「海の男と‥」得意然としていましたが‥結婚家族‥を考え出してから(心気一転)‥。

 だが(汚い経歴は絶対にダメ)と友人達から止められた官庁勤め(気象庁)に敢えて飛び込みました(若かったネー)。

 初任地の本州最南端の(潮岬)で通信の仕事は貰えず、草刈・掃除や他人の手伝いばかり‥、海員組合経験から組合活動に入り、労働運動反戦平和の活動へと広がり(反骨精神)を養って‥遂に一端の闘士気取り、「僻地勤務は役付3年・平2年」と言われたのに、敢えて3年間の長期勤務を選びました

 僻地を終えて大阪に帰ったが、仕事は対官庁の人事の事務ばかり(通信業務はさせない←官庁は報復人事をやる)が何年続いたでしょうか‥。イビリはその後もずっと続きましたが‥

 しか自分なりに、自動車運転やコンピュータ先進的に職場に取入れ、特殊勤務の(南鳥島)や船員経験も活かしてきたので、職場の仲間からは、大きな信頼が貰え、みんなの力で支えられてきました

 職場経験としては、大阪飛行場伊丹から大阪高安山へ気象レーダーで勤務。(この時点で、気象レーダー積算雨量計など‥現在気象庁画像放送の基礎を作り、無線界ではクロスバンドBBS(インタネットの前身)の発明開発をしてきまた。

和歌山は(微小地震多発の特殊地域)で地震の専門官。

東京清瀬の気象衛星センター(現在は気象予報の中枢も)へは単身赴任。 最終勤務は大阪通信でしたが、神戸地震に遭遇し大いに専門経験を活かすことになりました

 気象庁退職後は、気象協会に入り気象衛星利用の放送システムの展開に当たって来ましたが、奈良協会の閉鎖で2002年退職しました

 組合役員は、青年婦人部以来で、連続ン十年か?‥。本業の通信では徹底的に技術開発・運用に邁進し(少しのヘマでも足を引かれるので)(技術力では誰にも絶対に負けない)を標榜してきました職場の仲間には、ゆとり人生(遊びこそ最大の学習の基礎‥)と触れ回りながら、

 自分では、スクータバイク自動車キャンピングカー、行楽、ハイキングスキー登山沢登り釣りヨット、モターボート、社交ダンスオーディオビデオ録画。マイコンワープロパソコン等は利用でなく(メーカー顔負けの機器開発‥)有りと全ゆるものに手を出し「Yk総合レジャーセンター」所長を自称してきました

 色彩技術への関心の始まりは、何度か訪れた美術展で「実物作品」と対峙して得られる感動が、紹介用の印刷物等では全く無い‥ことからです。 手元を振り返って見ると、スキャナーでJPG処理をすると、BMPで存在した絵の力が消えてしまうことです(今でも愕然として身が震るえる)(←理由は解明出来てません)。が

 これまでの色彩扱いには「大きな欠陥・技術的な欠落が有る」筈だ‥ が確信になって来るのです

 この年になって、今さら騒がなくても‥とも思いますが、最高に履歴の汚い(浅いが広い技術屋)私だからこそ出来た仕事でないかと思って見たりもしています。