下村大輔

下村大輔さんのプロフィール

やる&たい=PLAY AND WANT

プロフィール最終更新日:

はてなID
simomuradaisuke
ニックネーム
下村大輔
一行紹介

やる&たい=PLAY AND WANT

自己紹介

『私のリカバリーストーリー』

 今考えれば病前性格だと分かるのですが思えば思春期の頃から何で生きているのってこんなにしんどいんやろうって思っていました。

 1992年18歳で兵庫県の高校を卒業して何となく俳優をやろうと思って上京しました。アルバイトをしながらコントやお芝居の真似ごとの様な事をしてその後ちゃんとした劇団にも入って演劇をしていたのですがやはりいつも気分の波があり精神的にもキツくてあと気が変わってやっぱり音楽をやりたいと思い沖縄で「ボサロージン」と言う名前のバンドを結成しました。それから紆余曲折して2000年25歳の時バンドが音楽的完成形に到達し解散したのをトリガーに発病しました。

 そして5年ぶりに偶然再会した友人に連れて行かれて精神科に初めて受診しました。それを期に東京での一人暮らしから千葉市の実家へ引っ越しをして来てひきこもり状態がはじまりました。頭の中に黒い塊が現れてそれがどんどん大きく重たくなってぐるぐる回ってとても辛くて悩まされました。最初は病識を持てなくて薬を飲んだり飲まなかったり病院へ行ったり行かなかったり随分遠回りをしてドクターショッピングもたくさんしました。

 その時母と二人暮らしだったのですがはじめ母には精神科へ通院している事は言えませんでした。朝母が仕事へ出掛けて夕方帰ってくるまで僕がずっと部屋に居続けて寝たきりなのが何週間も続いて母が眉間に皺を寄せて「2階のあんたの部屋には悪魔が住んでいる」とノイローゼっぽくなって沢山の皿が割れたりドアが壊れたり色々あってそんな日がまた何ヶ月も続いてその状態に耐えられなくなった母が「あんたが出て行かないんだったら私が出て行く」って知り合いをたどって英語も喋れないのにオーストラリアの牧場に一年間働きに行きました。

 母が出て行って一人でひきこもっていた時夜中にコンビニに食べ物を買いに行った帰り道歩きながら今俺家族や幼馴染の誰が死んでも悲しくないし今俺が死んでも家族や幼馴染の誰も悲しまないと思って今の自分の状況は異様なんだと気付いてゾッとしましたそれから世の中からどんどん取り残されていく感じとみるみる大きくなっていく不安の孤立した自分の状態がさみしすぎて人間全員みんな死んでしまえばいいなどと恐ろしい考えも浮かんでいました凶悪犯罪を起こしてしまう人の気持ちがわかるような心境でした。

 母がオーストラリアへ出発する時に成田空港で「人だよ」って捨て台詞を吐いて言ったのを思い出し今の俺の状況は変だ何とかしなければと思いました。母が家から出て行く前に役所で調べてくれてけやきと仲間の存在を知りました。母がいなくなり一人で家にひきこもっていてこれではいけないと思いそして勇気を出してけやきに初めて行きましたその時は少しだけ行ってでもすごくしんどくて行かなくなってその後色んな仕事をしてでもミスばかりしたり仕事を覚えられなくて何度もクビになってそして調子も良くなったり悪くなったりして働いたり辞めたりを繰り返しました。

 同時に病気を発病してから色々な創作活動をしてきましたその時はただ必死なだけだったのですが今思うと結果的にはセラピーになっていたんだと思います。そして最後に撮った映画「みんな」これを完成させたら世界を救えると本気で思っていた躁状態の誇大妄想の時につくった作品なのですが三部作でニ作目までは何とか作ったのですがしかしとうとう完成出来ず大挫折を経験して創作は所詮娯楽だこんなもの作っても世界は救えない世の中は問題だらけだと目が醒めてそして社会運動がやりたい人間を食物連鎖に入れようと「樹木土葬」を思い付きました。しかし上手くいかずまた挫折し立ち直れずにショックで落ち込んで精神状態がとてもおかしくなってそして2007年33歳の時初めての入院をしました。

 退院後知的障害者のヘルパーの仕事をなんとか3年やったのですがまた体調を崩して辞めてでも働く仕事をするって事が唯一社会と接する事だという固定観念があってそんな時単身赴任から帰ってきていた親父に「人生で何々しなければいけないなんてないんだ何々したいからするんだ」「仕事以外に何かないのか」と言われて「えっー仕事以外に社会と接する事、あーそう言えば昔西千葉にけやきと仲間と言う場所があった」と思い出しました。2012年38歳の時でした。

 2025年今50歳になった私は大袈裟ではなくて人薬時間薬のあるけやきと仲間という場所を命の恩場所だと思っています病状もありずっとひとりぼっちで生きてきた僕にもメンバーさんスタッフさんボランティアさん色々な年代の友達が沢山出来て毎日一杯人に揉まれて遅れてきた青春時代を謳歌しています。本当に心から幸せで今は病気になった事をラッキーだとさえ思っています。親父が言っていた何々「たい」というのは遊び呆けたい「たい」では無く努力したい頑張りたい成長したい変わりたいも入っている「たい」で今私は「べき」では無く24時間「たい」で生きています。10年ぐらい前から今が一番楽しいがずっと続いていて一日に何度も幸せだなぁって思ってそうしてどうやらこれから私はこの幸せをみんなに伝えたいらしいのです。

 でもまだまだ前途は多難です残された人生日々大切に感謝と謙虚と健康で焦らずしっかり生きていきたいです!